常に二者択一を迫られる、ストレスだらけの日常。せめて大好きな「散歩」くらいは、途中で立ち止まり、振り返り、あえて小さな路地に迷いこみながら闊歩したい。 ゆっくりと自分の目線で眺めながら歩いてこそ、見えてくる何かがあるはず?!

2010年5月26日水曜日

◆歩き回るのは不安だから、それとも希望?


 私の愛書のひとつである阿佐田哲也さんの『麻雀放浪記 1青春編』で、その書き出しの部分にこんな文章があります。物語の舞台は戦後間もない東京の焼け野原です…。

「盛り場の道はどこも混雑していた。ただ歩くだけなのだ。闇市もまだなかった。映画館も大部分は焼失していた。けれども人々は命をとりとめて大道を闊歩できることにただ満足しているようであった。」

 もちろん、私はここに書かれたような光景を自分の目で見たことはありません。しかし、おそらく当時の人たちは、暗くふさぎがちな表情ながらも、瞳の奥に生きることへの小さな炎を燃やし、すれ違いながら互いにその炎を確認し、共有して、歩き回っていたのではないかと想像します。

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「歩く」という行為は、ヒトを含めたすべての動物にとって、その存在を維持するための根源的な行為です。食べ物をとりにいく、水を求める、あるいは、新たな生活の場を探す―そのために動物は歩いて移動します。あまりにも当たり前のことですが、私は「歩く」ことが、現在の社会生活においても精神面に大きな影響を及ぼす、大切な行為だと考えます。

 例えば、引越しをしたばかりのころ、やたらと近所を歩き回ったことはありませんか? あるいは普段は外出が面倒なのに、旅行に出かけると人が変わったようにアクティブになったりしませんか?

 たぶんヒトは環境が変わって不安を感じると、「歩く」という行動に出る、そんな本能があるように思えます。自分の居場所を確認するために歩く―それは単純な空間認識という目的だけでなく、不安を打ち消して心のバランスを保つという防衛本能のようなものではないでしょうか?

 そして、歩くとヒトはいろいろなものを五感で受け止め、とりとめもなく思考をめぐらします。「考える」ことはランニングではやはり難しい。歩くスピードとテンポが、「考える」状態にふさわしいと思います。私の場合、ごく稀に(数年に1度くらい)すばらしいヒラメキが浮かぶこともありますが、たいがいはお馬鹿で無駄な妄想の類です。でも、その無駄や遊びが精神衛生上で大切なことかもしれません。

 もしも、仕事や日々の暮らしで行き詰まりを感じたなら、とりあえず外出して、あてもなく近所を歩いてみてはいかがでしょうか? 一歩ずつ進みながら思考をめぐらすことで、悩みの解決策とまではいかないまでも、前向きなモチベーションくらいは得られると思いますよ。

 もっとも、年中歩き回っている自分自身は、ひょっとして「不安」の塊? この日も、神楽坂からお台場まで、約13kmを散歩しました。写真はお台場にある第三台場。幕末の黒船来襲に驚いた幕府が、江戸城を守るために築いた砲台の跡地です。台場の端から陸続きなので上陸できます。

レインボーブリッジは歩いて渡ることもできます。そばをクルマがビュンビュン通るので、あまり快適な散歩道とはいえませんが、東京湾の約60m上空で揺れる、ちょっとコワイ景色が味わえます。橋の左右の歩道のどちらかを選ぶことができますが、強風の時には通行止めになったりする場合もあります。

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